自分の人生が無価値でもいいじゃないか
今の社会、少しでも無駄な時間を過ごすと糾弾される。
空白期間の存在を咎められ、進捗なき時間を悪とする。
それって、自分はどうかと思うんだよね。
人生には無駄な時間が生まれやすい
何もしなかった日。
何もしなかった時間。
休息だの頭の整理だの言えば理由をつけられるが、どう理由をつけようとそれは「進捗の無い時間」であることに間違いない。
そして、人生ではそんな時間が非常に生まれやすい。
不登校になったり、浪人したり、就職しなかったり、休職したり。
それを人は時に無駄であり悪いことだと言うが、自分はそんなことだと思わない。
何もない時間は「あって当たり前」
空白の時間に意味があるとは言わない。
だけれどもそれって、あって当たり前なんじゃないだろうか。
むしろ、その空白を無くし悪と評価するようになってしまった社会に問題があるのではないだろうか。
Facebookなんかで見る他人のキラキラした1日に怯える必要はない。
人間の時間全てに意味があって価値がある。なければならない。
そんな話は異常だ。
そもそも人間の生活なんて自己満足以外の何物でも無い。
最終的な要約を行えば、死にたくないから生きるだけである。
それに価値だの意味だのとつけるのは高慢でしかない。
生きてりゃちょっと無価値で意味のない時間を過ごすことくらい当たり前のことなのだ。
なにを恥じることがあろうか。自己満足の為に生きている時点で恥も何もありはしない。
常に社会は人の人生を値踏みする
資本主義に染まった社会は、全ての時間が「価値」で埋まった人間にしか興味が無い。
悲しいことに、そうなっている。
会社なんてお金儲けをするための組織だ。それは仕方ないことだろう。
悔しいがそこは受け入れなければならない。
だけど、社会全体的にも無価値を認めない動きがあるのはやっぱり悲しい。
会社に属さなくてもお金を稼いで、生活に必要なものを揃えて生きる方法はいくらでもある。
だが日本の学校はそれを教えない。その価値観を教えない。
常に自分に価値だの意味だのを求めてくる。
息がつまるばかりだ。
無価値であることを悲観するな
全ては無価値だ。
価値なんて他人が勝手に決めようとすることだ
他人の決める価値に当てはめようとして溺れる必要はない。
苦しければ逃げていいのだ。
自分で自分に価値をつけていいし、自分に合う他人の価値を見つけてもいいし、無価値でも生きられる方法を探してもいい。
価値があることを前提にして生きる必要はない。
死なないことを前提にして、そこからどう生きるか見つければいいのだ。